【副読本】第Ⅱ章 地理学と美術とジェンダー



1.ジェンダー研究と地理学

 男女のジェンダーは、単に上下に階層化されているのではなく、人間一般を代表する「男」にとって主体であらざるもの(他者)が、「女」として定義されてきた。女性は、常に男性から差異化され、差別される存在として位置づけられ、そのために、そこに権力関係が発生するのである。ジェンダー研究は、このような男性による女性支配システムの構造の解明、そこに発生する権力関係のあぶり出しを目指している(吉田 2006)。

 「地理」とは大地の理であり、地表が特定の状態であることと、その仕組みを指している。地理学geographyとは、地表面geoの出来事を記述graphする学問であり、出来事を生じさせる理について、人間活動に注目する分野を人文地理学、地形や天気、海流など人間以外の自然要素に注目する分野を自然地理学と呼ぶ。人文地理学は、人間活動と大地の関係を考える学問であり、関係を捉える視点および対象物として、空間、風景、場所が採用される(森 2021)。人文地理学は人文科学の中でも特に男性優位の学問とされており、主体としての男性から他者としかみなされない女性は、地理学における議論から排除されてきた(ローズ 2001)。人文地理学における従来の研究では、民族、人種、階級、宗教などによる差異化から生じる権力関係が空間に映し出された結果として、たとえば居住地域の分化という可視的現象が詳細に把握された。しかし、ジェンダー関係が生み出され、それが空間に刻まれていく過程、すなわち「空間のジェンダー化」に関心が向けられるようになったのは1970年代以降のことである。初期のフェミニスト地理学では、女性の不平等で制約された状態(たとえば、女性が家事・育児に代表される家庭内での役割分担のために、行動面で空間的な制約を受けている状態)を記述し、地図に示すことが目標とされた(吉田 2006)。

 

2.ヨハネス・フェルメールの《地理学者》

 地理学的な物の見方は、美術作品を事例に説明されることがある。以下では,ヨハネス・フェルメールの《地理学者》、トマス・ゲインズバラの《アンドリューズ夫妻》を事例に、地理学が美術作品に描かれた風景から何を読み取るのか、紹介したい。

 大航海時代の冒険および貿易により、17世紀のオランダは他の国よりも優れた地図作製技術を持っていた。オランダの地図出版者たちの手によって、歴史上で最も装飾的な地図が制作された。そのような時代背景もあり、当時、多くの画家が作品中に地図を描いていた(Google Arts & Culture 2022a)。オランダの都市デルフト生まれの画家、ヨハネス・フェルメール(1632~1675)もその1人である。

 フェルメールの《地理学者》は、当時の人々が世界をどのように見ていたのかを示すものである。作品中に登場する地理学者は、地図を眺め、世界を理解しようとしている。地図は、大地の測量によって作られたものであり、それまでは捉えることが困難であった対象が科学的に測量され、人々にとって理解可能になったことを示唆している(森 2021)。

 フェルメールは、写真の原理に似たカメラ・オブスクラの装置を使用して絵を描いたと考えられている(美術手帖 2022)。カメラ・オブスクラとは、ラテン語で「暗い部屋」を意味する画像投影技術である。暗い空間に小さな穴を開け、そこに光を通すことで、壁面に上下逆さまの映像が映し出される。一方で、カメラ・オブスクラは、室内にいる観察者(主体)と、穴を通して観察される外界(客体)の明確な区別を象徴するものでもある(森 2021

 

3.トマス・ゲインズバラの《アンドリューズ夫妻》

 優れた肖像画家として知られるイギリスの画家、トマス・ゲインズバラ(17271788)は、真に描きたかったのは風景であり、「肖像画は金のために、風景画は楽しみのために描く」と述べたと伝えられている(Google Arts & Culture 2022b)。事実、ゲインズバラの代表作で、パトロンのアンドリューズ家のために描いた《アンドリューズ夫妻》では、モデルの夫妻の姿がキャンバスの左端に追いやられ、キャンバスの右半分が、アンドリューズ夫妻の領地である田園風景の描写に費やされている(森 2021

 《アンドリューズ夫妻》は、アンドリューズ家による土地の囲い込みと、その所有を表している。この絵画からは、夫妻の「地主として描かれた自らの姿を見るという喜び」が窺える(バージャー 2013)。一方で、絵画には描かれていないが、ここでは自らの身体以外に何も持たない農夫が、特定の価値観に基づいて、この風景を維持するために労働している。風景は富の蓄積によって作り出された社会の階層および階級化と関わっている(森 2021

 ジェンダーの視点でこの絵画を見たとき、夫妻の間に横たわる性差をも読み取ることができる。夫はすぐにでも銃を抱えて狩猟に出かけそうな様子であるが、婦人はベンチに根が生えたかのごとく座っており、動と静が対照的である。さらに、婦人の背後に生えるオークが、イングランドにおいては家の繁栄の象徴であることを考慮すれば、彼女には、子供を産み増やし、養育すること、再生産することが期待されていると指摘できる(ローズ 2001)。

 

K. I.


【参考文献】

美術手帖 2022. ヨハネス・フェルメール.(最終閲覧日:20221230日)

バージャー, J. , 伊藤俊治訳 1986. 『イメージ視覚とメディア』PARCO出版局.

森 正人 2021. 『文化地理学講義』新曜社.

ローズ, G. , 影山穂波・佐藤真江・西村雄一郎・丹羽弘一・福田珠己・山田朋子・吉田雄介・吉田容子訳 2001. 『フェミニズムと地理学』地人書房.

吉田容子 2006. 地理学におけるジェンダー研究空間に潜むジェンダー関係への着目. E-journal GEO 1(0): 22-29.

Google Arts & Culture 2022a. フェルメールと地図へのこだわり.(最終閲覧日:20221230日)

Google Arts & Culture 2022b. トマス・ゲインズバラ.(最終閲覧日:20221230日)

コメント