【副読本】第Ⅰ章 ヨーロッパにおけるジェンダー文化―女神像の表象を巡って



1.「ヨーロッパ史」の転換とジェンダー

 従来、ヨーロッパ史は、父権的なキリスト教文化をベースとし、男性中心主義のバイアスを持った視座から記述されてきた。このような例として、教皇、国王、統治者、外交、戦争という支配する側からの史観に基づいたヨーロッパ史があるのである。つまり上から展開される歴史の記述が多かったわけであるが、このような傾向に異を唱えたのがいわゆるアナール学派であった。20世紀に大きな影響を持ったフランス現代歴史学の潮流の一つであり、学術誌”Annales d’histoire économique et sociale”に集まった歴史家たちが主導したことからこう呼ばれる彼らは、上述のような従来の歴史学が、事件史や人物史(もちろんほぼ男性の人物であった)の叙述に傾きやすかったことを批判し、それまで見過ごされてきた文化史や民衆史に光を当てること、そして社会全体の「集合的記憶」に目を向けるべきことを提唱したのだ。

 このように「ヨーロッパ史」の在り方を変えたアナール学派であったが、彼らの登場後においても、人口の半分を占める女性へのまなざしやジェンダーの問題は、通史としてはほとんど無視、除外してきたのが事実である。

 このようなジェンダーの扱いに対して、まったく疑義が呈されなかったわけではなかった。その一つが「ヨーロッパ史」におけるジェンダーの扱いに疑義を呈したのがスイス人バッファーオーフェンの『母権論』(1861)である。彼は「母権」という概念によって古代における母系社会からその後の父権社会への転換という仮説を定義した。この「母権」という概念に関しては容易に左袒することはできないが、古代においてはシヴァ、アマゾン族、アルテミスのような異教的女性像がヨーロッパ史の原初たる地中海文化に大きく影響したことは間違いない。キリスト教化以降にも男性中心的な宗教・倫理観の中で騎士道精神やマリア信仰が登場し、その上フランス革命によって触発された近代フェミニズムも、女性解放運動の前史として存在した。

 以上から、ヨーロッパ史をジェンダーの視点から通史的に再検討することの重要性が理解できるだろう。以下では、前述の母権社会に関連して、古代に興隆した女神信仰と、その変容について見ていく。

 

2.古代の女神信仰

 古代オリエントやエジプト、ヨーロッパ地域ではかつて女神信仰が栄えた時期があった。まずバビロニア南部のシュメールではすでに紀元前3200年には大いなる女神の崇拝がなされていた。王が男性神に、女性祭司が女神に扮して豊穣を祈願する聖婚儀式は、ウル第3王朝の伝統を受け継いだイシン第1王朝まで続けられた。この古代メソポタミアの影響受けたエジプトでは女神イシスが地母神として信仰された。ギリシア、ローマは多神教であったので、多くの女神が存在し、それらの女神たちを祝う祭祀も多かった。アテナイでは年間60もの祭事が行われていたが、アテナイの主神たる女神アテナのための秘儀を伴う夜祭、アレフォリア祭は国家祭儀の一つであった。しかしながら以上の事実が、女性の地位が高かったことを示すものでないことは、ソロンやアリストテレスらの記述から分かる通りである。

 これらヨーロッパ、地中海沿岸地域の母権的シンボルの失墜はキリスト教がそれらを異教認定したことが決定的であったが、ギリシアの最高神、ゼウスの全能性が女神の優位を脅かしたこともその一助となった。またアリストテレスによる自然の事物の体系的な分類、ピュシス(自然)とテクネー(技術)の対立の明確化などが進んだことも大きい。これらの素地の整備が、強烈な父権制を伴うキリスト教の普及を準備したのである。

 

3.女神像のデフォルメ

 前述のとおり古代の多神教に基づく女神信仰はヨーロッパの基層文化を成しながら父権制の浸透によって失墜して行った。そして男性中心の社会においてその豊穣性、神秘性などのイメージをデフォルメされることになる。以下に二例を挙げる。

 元々アダムの妻はリリトであった。『旧約聖書』においてはアダムの肋骨から作られたイヴが妻であるが、伝説によればリリトが妻であり、紀元前1950年ごろのシュメールでは実際に粘土板の像が残っている。彼女は男性主導に反発したことが伝えられており、父権制が勝利するにしたがって、彼女のそのようなイメージは魔女に結び付けられることとなる。前述の像には翼が描かれているが、中世の魔女幻想に繋がるものと捉えることもできる。

 本来蛇は豊穣のシンボルであり、そのイメージは女性のそれと結び付けられ崇められるようになった。ギリシア神話の、蛇の髪を持つメドューサは恐ろしいイメージと結び付けられるが、エーゲ海において信仰されるメドューサは美しく、明らかに別系統であった。つまりギリシア神話、創世記における蛇・メドューサへのネガティブなイメージは取りも直さず女性蔑視を助長するものであった。

 一方で、父権的なキリスト教においても神聖視された女性がおり、その代表が聖母マリアである。3世紀まではマリアに対して特別な信仰はなかったとされるが、その処女懐胎、被昇天に焦点を当てられ、それが教会の肉欲を禁じる方針と合致したことで状況が変化した。そして451年のエフェソス公会議を経てマリア信仰は確固たるものになっていった。

 かくして神格化された聖母マリアであったが、その神聖なる地位は永遠のものではなかった。時代は下り、ルネサンスを経て1516世紀になると人間としてのマリアが描かれるようになったのだ。ジャン・フーケによる聖母子像などが代表的なものであるが、光背を持たず乳房を露出させたこれらの聖母子像はまさしくマドンナから女性性の解放を物語るものであり、女性原理のデフォルメの表出であったと言えるだろう。

 

ジャン・フーケ『聖母子像』https://onl.sc/xdwKLdp

R. S.


【参考文献】

竹岡敬温 1990. 『アナール学派と社会史:新しい歴史へ向かって』同文館.

浜本隆志・伊藤誠宏・柏木 治・森 貴司・溝井裕一 2011. 『ヨーロッパ・ジェンダー文化論女神信仰・社会風俗・結婚観の軌跡』明石書店.

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