【副読本】第Ⅳ章 ジェンダーバイアスとアンコンシャスバイアス



1.はじめに

 「男だから」「女だから」などという枕詞を、このところはたと耳にしなくなった。こうしたジェンダーバイアスを前時代的だなどと、切り捨てるのは簡単である。しかし、これら枕詞が発されるまでにも背景、すなわち思考の脈絡があろう。以下、話題提供と問題提起をしてみたい。

 

2.バイアスとは

 そもそも本稿のタイトルには、二度も「バイアス」という語が出ている。バイアスとは、デジタル大辞泉を見ると、先入観、偏見とある。その人の生育環境(時代、土地柄、養育者など)やそれまでの人生で経験したことによっても左右されそうだし、その人もまた誰かの養育者になり得るから、何らかの形で再生産されていくことも起こり得る。また、そうした先入観や偏見は、ある種のハラスメントを引き起こすこともまた、十分に起こり得る。一方で、そうしたバイアスは、その人にとってある意味身に染みついた、考え方の基底をなすものであるために、問題があると自覚しにくく、指摘されても改善しにくいのかもしれない。本稿はそれを糾弾することを目的とはしていない。むしろ誰であれ、バイアスは無自覚的に持ち得る(あるいはすでに持っているかもしれない)ものすなわちアンコンシャスバイアスであることを前提として、考えてみたいのである。

 

3.前提としてのアンコンシャスバイアス

 まず、ジェンダーバイアスをより広くとらえていくため、アンコンシャスバイアスから考えてみよう。アンコンシャスバイアス、すなわち無意識の先入観、偏見は「自分は○○だから、他の人も同様に○○であろう」という、○○ではない人を排除した考え方であることが多いように思われる。例を挙げてみると、若干極端かもしれないが、自分が健康体であるということすら、バイアスを起こし得る。病気やケガ、身体的な障害を抱えた人を排除するまではいかないものの、そうした人の主張や要望を頭ごなしに「ノイジーマイノリティーが騒いでいる」などとして、退けてしまうこともあるのではないか。他にも、例えば国籍も同様の例として挙げることができよう。自分は日本に住む日本人だからという理由で、気に食わない民族の人々に対するヘイトスピーチや排斥運動に走るということは現実に見聞きするし、特段不自由のない幼少期を送ってきたから、お金がなくて困っている人の気持ちが分からず、そうした人の困りごとを「弱音を吐いている」「甘えている」などと一蹴してしまうというのも、仄聞する話である。以上の例を見ても、もしかしたらご共感いただけないかもしれない。「出自のような本人に責めのないことを論うのはおかしい」という意見もあろう。しかし、そのように本人に責めのないことであっても、差別やハラスメントの種になり得るということもまた、事実ではなかろうか。


4.ジェンダーバイアスは男性の選択肢をも狭める

 以上を前提に、ジェンダーバイアスについて考えてみよう。この語をgoogle検索に掛けると、桐生市の「男女の役割に関する固定的な観念や、それに基づく差別・偏見・行動などのこと」という定義がトップにヒットする(桐生市市民生活部市民生活課 2020)。それを見てみると、配偶者を指す言葉に、夫と妻の間に上下関係があるかのような表現が見られるとか、学校制服一つあげても女子はほぼスカートと決まっているなど、様々な例が挙げられている。こうしたことから考えるに、配偶者を指す言葉として「主人」と「家内」を例にすると、前者は男性に、後者は女性に、それぞれもっぱら使われる。すなわち、一家の主は男、家の中のことをするのは女、というニュアンスのこもった言葉である。学校制服に関しては、逆に男子の制服はもっぱらスラックスであるし、女子はスラックスとスカートの選択制という学校も仄聞する。男子の制服でスカートとスラックスの選択制という話はほとんど聞かないので、男子も男子で選択肢が限定される場合があるようだ。また職業選択でも、例えば長距離ドライバーは男性とか、保育士は女性とか、そうした性別固定的な観念も、以前よりは弱くなってきたと思われるが、それでも未だに見られる。他にも、男なのに●●を好きになるなんて、とか、女なのに●●を…というのもまた、ジェンダーバイアスであろう。言葉遣い一つとっても、例えば男性ならば許容されそうな言い方でも、女性だと「はしたない」などと謗られる場合もある。

 

5.おわりに

 繰り返すが、本稿は、バイアスや差別を糾弾することを目的とはしていない。あくまでもバイアスは無自覚的に持たれてしまうものであること、そしてバイアスのきっかけは、思わぬところに潜んでいるということを考えるつもりで著したものである。そもそも男女という分け方も、生まれ付いた肉体的な特性(病気や妊娠などの生理現象を含めて)を考える以外には、もはや意味をなさないのかもしれない。ジェンダーや性をめぐっても、将来的にはさらなるパラダイムシフトがあり得よう。この本を手に取ってくださった皆さんが、目の前にある差別や偏見について考え、実行していくきっかけになれば幸いである。

 

N. M.


【参考文献】

桐生市市民生活部市民生活課 2020. 『桐生市男女共同参画情報紙「はじめよう」第21号』(最終閲覧日:20221230日)

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