小林ドンゲ(1927~)
【略歴】
1926年 東京都に生まれる
1949年 女子美術大学中退
1953年 関野準一郎主催の銅版画研究会で銅版画を教わる。
1956年 日本版画協会展第一回恩地賞受賞
1964年 渡仏、フリードランデルの美術学校とヘイターのアトリエで銅版画を学ぶ
1965年 ル・サロン展銅賞
【作家解説】
小林ドンゲは1926年、東京都の深川に生まれる。両親が和菓子屋を営んでいる裕福な環境で育った小林は、日本舞踊を習ったり、歌舞伎や新派劇を観劇したり、本や絵画に興味をもったりと文化的に豊かな幼少時代を送る。終戦の年に受験をした小林は当初、東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験しようとしたが、大学の制度が変わっておらず男性しか入学を認められなかった。小林はこの時のことについて「もの凄い女性差別の屈辱感を味わいました。」と述べている。
女子美術大学中退後の1951年頃、上野の美術館で見たルシアン・クートオの銅版画に魅了された小林は、当時勤めていた日本タイムス(現・共同通信)の同僚の紹介で駒井哲郎と知り合った。銅版画を学びたいと申し出た小林に、駒井は関野準一郎が主催していた銅版画研究所を教える。小林はその研究所で1954年頃まで銅版画のイロハを学んだ。
日本画家・小林古怪の線に憧れた小林は、銅版を直接彫るエングレーヴィングという技法に出会う。やがてエングレーヴィングの道具であるビュランをフランスから取り寄せ、作品制作を行うようになった小林は、ここからビュラン一筋の作品制作を行うようになった。
小林の特徴として、文学者や作家との交流が多いことが挙げられるだろう。代表的なものとしては詩人・堀口大學との交流がある。小林と堀口には、1953年に知り合ってから堀口が亡くなるまでの約30年間に渡る長い交友があった。小林は堀口の詩集の挿画も多く手がけている。書物の仕事を多く引き受けていた小林は、インタビューにて「八〇年くらいまで、本の仕事が主でしたね。」と述べている。
『ドンゲ』という名前は、三千年に一度花開くとされるインドの伝説の花、優曇華(うどんげ)に由来する。小林は1954年頃、知り合いの僧にこの名前を贈られ、それ以降小林ドンゲと名乗るようになった。
【参考文献】
宮田博子(1997)「アトリエの画家たち16 小林ドンゲ」『版画藝術』97号, pp.138-147, 阿部出版株式会社
佐野市立美術館(2019)『小林ドンゲ展 ファム・ファタル(妖婦)』佐野市立美術館

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