【作家解説】合田佐和子


合田佐和子(19402016

【略歴】

1940年 高知県高知市に生まれる。ガラクタ収集癖のある子供だった。

1959年 武蔵野美術学校本科(現・武蔵野美術大学)商業デザイン科に入学。

1963年 武蔵野美術学校卒業。この年、野中ユリと知り合う。

1965年 初個展「合田佐和子/作品展」開催。以後、各地で個展・オブジェ展を開催。

1985年 『オリジナル・ミニアチュール銅版画集 合田佐和子 銀幕』刊行。

1991年 中上健次の朝日新聞連載小説「軽蔑」に挿絵を提供。

2016年 心不全で死去。75歳。

 

【作家解説】

 合田は、自分の目と、それに連動する身体感覚を、制作活動と生活に直結させようとしていた。早くから自分の物の見方・見え方についての強い自覚と自負があった。終戦後の高知で育った彼女は、空襲で焼かれて溶け、壊れてバラバラになり、用途と意味を失ってしまったオブジェに目を奪われた。海岸や洞窟で見つかる石や貝殻や骨などの自然物の脅威も、彼女の関心の対象であった。東京へ出てからの10年間、彼女が制作し続けたのは、そのような雑多なオブジェたちのアサンブラージュ(寄せ集め)である。

 1971年から、合田のオブジェは立体から平面へと移った。きっかけは、アメリカ滞在中に道端で拾った銀板写真である。カメラという器械の目を通して平面化されている写真を、そのまま人間の目で写し取るという独自の方法によって、優美で無機質でメランコリックな絵画世界が現出した。レンズによって現実を超現実に変える光学装置は、人間の目のことでもあり、その「レンズ効果」によって、彼女は見ることの自由と客観性を解き放とうとしていた。

 合田が描いてきた絵は、ほとんどが人物像であった。有名な映画スターたちのブロマイドなどから、像主を油彩画などに写し取るのが彼女の方法である。メディア上で消費され尽くし、重く傷付いた映画スターたちの写真像を写し取る、治療にも似た手作業の中で、彼らは傷口を解放し、別の顔をもって再生する。このような彼女の作風は、消費され壊れた物たちを別の存在へと再生させる立体オブジェ制作から始まっていた。

 合田は、自身の作品世界から男性原理を排除し続けた作家である。壊れた物と像を集め、治癒を施して出来上がる合田の作品に宿る可憐さ、きらめき、少女性は、中央にそびえる権力からできるだけ遠ざかり、周辺から世界を見ようとする意志である。また、彼女は現代美術の動向や趨勢に従わないで活動してきた。いわゆる美術用語、美術史的言説、美術潮流を自らの内部に取り入れなかった。合田の存在は、現在の美術史の中に十分な位置を与えられていないが、その存在自体が、男性原理とその美術史を批判する力を持っている。

 

参考文献

合田佐和子 1983. 『パンドラ 合田佐和子作品集』PARCO出版.

合田佐和子 1988. 『眼玉のハーレム』PARCO出版.

コロナ・ブックス編集部編 2017. 『合田佐和子 光へ向かう旅』平凡社.

光田由里 2003. 『合田佐和子 映像―絵画・オブジェ・写真―』渋谷区立松濤美術館.

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